読者コメント
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高校に入って初めてスマホを買って今までゲームにそこまではまったことがなかったのに、毎日1日中ゲームにはまった息子に不安を感じていた時だったので自分が息子をダメだと決めつけている自分を認めました。
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今までメルマガ初めて3年間、何度も何度も書いてきたこと、子どもがどんだけゲームやっていようとも、大丈夫です。
大丈夫じゃないことがあるとすれば、親が持っている自分ルールを子どもが破ること、くらいでしょうか。
つまり、親が理解できないことを子どもがやるので、それで親がザワザワする、です。
ゲームをやりまくってても、子どもは死にはしないし、それで人間としてダメになるわけじゃない。
あるとすれば、親がゲームやっている子どもを見て、
「この子は、ヤバいんじゃないか」
って心配し始めて、
「この子は、ほんとにダメだな」
っていうレッテルを貼り始めることです。
親が、『ゲーム=悪』って思っているから、ゲームやっている子どもを見て、
ゲームは、ヤバい
子どもがゲームしている
つまり、子どもは、ヤバい
っていう三段論法が、親の中で成立しちゃってる。
だから、何とかして、ゲームをやめさせたくなる。
現代のゲームは、僕らが子どもだった頃よりも、確実に進化しています。
よりおもしろくなっているし、より多彩なことができるようになっています。
そもそも、僕が子どもの頃には、ゲームでオンライン通信できるものなんて、無かったし、あったとしても存在すら知りませんでした。
でも、今はそれが当たり前。
わざわざ攻略本を買わなくても、YoutubeやGoogleを検索すれば、攻略情報なんていくらでも出てくる。
昔のゲームもおもしろかったし、現代のゲームもおもしろい。
だから、ハマる。
心理学に「バランス理論」っていうものがあります。
これは、三者以上の関係において、それぞれがバランスを取るような立ち位置や、コミュニケーションを取るようになる、っていうものです。
誰かに利益や、不利益が偏らないように、ってやる。
このバランス感覚、個人の内面だけでも起こりうるし、親子関係でも起こります。
何かに偏り過ぎていると思ったら、ちょうどいい塩梅に戻しておきたくなる。
ゲームも、やり過ぎてはいけない、と。
やってもいいけれど、ほどほどにしておきなさい、と。
子どもが何かに突出してしまうのを恐れているような。
ゲームを悪だとまで思っていなくても、そういう「行きすぎ」を抑制したくなるような気持ち。
例えば、ゲームは2時間までなら落ち着いていられるけど、3時間目に突入し始めると、なぜか「そろそろ、やめるように言った方がいいのかな」みたいな感じで、ザワザワし始める。
ゲームをやり過ぎるとどうなるか。
子どもがダメになる・・・んじゃなくて、飽きます。
ゲームは確かに楽しいし、子どもがワクワクするのに十分なものを持ち合わせています。
でも、一部の例外を除いて、100時間とか、200時間くらいやり込めば、飽きてしまうくらいの分量なのです。
飽きれば次のゲームに行きますよね。
それも飽きれば、また次のゲームに行きます。
最初は、あるゲーム作品単体を知り尽くして満足したんです。
ゲーム作品を何本も何本も遊んでいくと、大体ストーリー展開が読めたり、大体やるべきことがすぐに理解できたりします。
そうやって、ゲームに対する理解を深めていくことで、より早く満足しやすくなり、飽きやすくなる。
そして、何かをとことん突き詰めてみることで、そこから何か本質のようなものを掴み取っています。
それが子ども自身に言語化できるかどうかは別として、感覚知として理解しています。
だから、難しい局面でも、サクサク進められる。
あと、ゲームをとことんやり込んでみると、そこから子どもは色んなことを学んでいたり、色んな感覚を鍛えています。
特に僕が注目したいのが、『イメージ力』です。
ゲームは、言わずもがな、テレビ画面を見ながら、遊びます。
ということは、視覚能力が鍛えられます。
特に、アクションゲームや、シューティングゲームなどの動的なゲームというか、常に緊張感を持って、集中していることが求められるゲームでは、ゲーム画面から目を離すことはできません。
もし、一瞬でも目を離してしまえば、即座にゲームオーバーになってしまうことがあるから、です。
臨場感持ってゲーム内で殺戮を繰り返したり、強い緊張状態を迫られるゲームに危惧をする人も多いんですが、ヤバかったら子どもは自分でやめれます。
もし、やめれなかったり、現実と混同していくんなら、それはゲームがそうさせているんじゃなくて、元々持っていたそういう性質をゲームが暴いただけ。
立川談志さんの「酒が人をダメにするんじゃなくて、人間が元々ダメってことを酒が暴くだけだ」っていう言葉にも通じます。
だってね、考えてもみてほしいんです。
ゲームが子どもをダメにしていくんなら、ゲームをやり過ぎている人は、みんなおかしくなっていないといけません。
用法容量を守らずにゲームをしている人は、ごまんといます。
「ゲーム依存症」
っていう考え方にも僕は否定的なのですが、お酒だって、めちゃくちゃ飲んでるけど、飲んだくれる人もいれば、お酒が好きでたくさん飲む人がいます。
それは、お酒がそうさせているわけじゃないから、お酒をやめさせたところで、別の何かに依存したり、隠れてお酒を飲んだりしちゃう。
そうじゃなくて、そもそも、「そんなにお酒をたくさん飲んじゃう理由」に注目して、その人の気持ちや、考えの深いところを聞いてあげて、寄り添ってあげる必要がある。
お酒をやめさせるんじゃない。
お酒はその人の生命線というか、心のよりどころなんです。
仮に、ゲームに依存症があるんだとしたら、その観点で考えても、
「ゲームを取り上げる」
「ゲームを制限する」
っていうのは愚策だ、と僕は思います。
もし、自分を見失うほどにゲームをしているんなら、それはゲームがそうさせているんじゃなくて、ゲームがその弱さというか、その悩みの深さというか、それをゲームが引き出しているだけです。
そして、本人にとって、ゲームが心のよりどころになっているので、子どもからゲームを取り上げようとするのは、心のよりどころを奪い去るようなもの。
下手したら、子どもは生きる希望すら失ってしまう。
「ゲームをしている子ども」が家庭の中にいる以上、もしも、子どものことを心配するのであれば、それは家庭の中での子どもの立ち位置や、親子、家族との関係性の中で、子どもを捉えていく必要があるんじゃないかと、僕は思っているんです。
その上で、子どもにとって、ゲームがどんな存在か、っていうのを考えていく。
・子ども
・ゲーム
この2者関係だけで考えると、子どもからゲームを取り上げるのか、それとも、容認するのか、っていうのの二択しか見えてきません。
子どもにとっては、その他にも、
・母親との関係
・父親との関係
・きょうだいとの関係
・先生との関係
・友達との関係
・家族の中でのポジション、役割
とか、色々とあるんです。
そういうものを諸々と加味して、子どもが抱えている何かを解消していく必要がある。
仮に、子どもが何か問題を抱えているんだとしたら、です。
もしかしたら、「親が問題視をするから、問題が作られている」っていう可能性だってあるんです。
子どもは至って普通にゲームしているだけ。
でも、親の中に「ゲームをやりすぎるとやばい!」っていう心配というか、思い込みがあって、その思い込みが問題じゃないことを問題に仕立て上げている可能性もあります。
親からすれば、子どもの元から問題や、問題の原因となるものを排除したい気持ちもあるでしょう。
時に、その気持ちが、問題じゃなかったものを問題認定して、排除しようという気持ちや行動に出てくることがあります。
分かりやすい例が勉強ですね。
「子どもが勉強しなくなる」
っていう理由で、ゲームを制限したり、取り上げたりするんです。
でね、意外と見落としがちなのかもしれませんが、
【子どもは、ゲームを取り上げられても、勉強はしない】
っていうこと(笑)
ゲームを問題視して、その問題の原因(ゲーム)を排除しようとするんですけど、排除したところで、特に状況は変わらない。
じゃあ、ゲームを好きなだけやってもOKってやってみると、勉強するのか、っていうと、勉強しないこともあります。
つまり、勉強するのかしないのかに、ゲームは関係ない、っていうことです。
「ゲームが原因だ!!」
って騒ぐんですけど、結局、ゲームを完全に排除しても、子どもは勉強をするようにはならんことが多々あります。
子どもは、親から問題児認定され、好きなものを取り上げられただけ。
それでも勉強しないもんだから、親から諦められたり、失望されたりする。
この間、子どもは何もしていません(笑)
親が勝手に子どもを問題児認定して、子どもの遊び道具を問題視し、その排除に成功しても、希望が叶わなかった。
そしたら、今度は、親が勝手に失望して、子どものことを「もうこの子はどうしようもない」って諦めちゃう。
同じことを二回書きましたが、この間、子どもは何もしていないんです。
親が問題を作り出し、騒ぎ、上手くいっても、勝手に失望してる。
茶番劇ですね(笑)
子どものやっているゲームは、特にこの茶番を生み出しやすい。
これは、昔、塾に勤めていた時に、中3の男の子から教えてもらった言葉。
「親は、子どもの好きなものを取り上げることで、子どもが言うことを聞くと思っている」
と。
これはうちの父親の言葉ですが、
「子どもの好きなものを取り上げたところで勉強するになんてならんだろ」
と。
僕自身、そんなこと言う親の元で育てられたので、世間的に言えば、ゲームに狂っていたし、依存もしていたんじゃないかなぁ。
ゲーム中心の生活をしていましたから。
でも、勉強は好きだったし、学校も好きだったので、自分から宿題も、勉強もしていました。
なんでか、っていうと、僕が特別な存在だったからではありません。
親によって、そうなるように育てられたから、です。
親がどこまで意図していたかどうかは分かりませんが、親の考え方、関わり方によって、僕は勉強を嫌いになる機会が無かった、っていうことです。
子どもは本来的に学ぶことや、知ること、考えることが好きなので、学校の勉強だって、楽しめるはずなんです。
でも、好きなものを取り上げられたり、問題視されたりすることを通して、勉強をするに至るエネルギーが足りなくなってしまう。
自ら学ぶエネルギーは、かなり高いレベルに位置しているものですから、そもそも、家庭の中で安心安全な環境が構築できていないんなら、子どもにとっては勉強どころではないんです。
子どもに勉強をしてほしいんなら、真っ先に手を付けた方がいいのは、
・家庭の雰囲気の改善
・親子関係の改善
・夫婦関係の改善
です。
子どもにとって、『家庭』という場所が、『親子』という関係性が、果たして、居心地の良いものになっているのかどうか。
勉強とか、成績とか、ゴチャゴチャ考える前に、そこをしっかりと見つめ直して、改善していった方が、実は近道だったりします。
家庭と、親子関係が子どもにとって居心地の良いものになって初めて、子どもの知的好奇心を思いっきり引き出すことができます。
これは、僕の個人的見解というか、解釈なんですが、ゲームを制限しているうちは、子どもの知的好奇心を育てるのは、不可能に近いんじゃないか、って思っています。
子どもの足に枷をかけておきながら、「もっと速く走れないの!?」って言っているようなもんかな、と。
佐伯コメント
ゲームの話は、僕の鉄板ネタですね(笑)
ゲームのことに関する理解は、まだまだ遅れていて、子どもがどんな気持ちでやっているのか、子どもの中で何が起こっているのかは全然理解されていないんじゃないかな。
子どもの様子は客観的に判断されちゃうから、子どもの内面まで考えが及ばなかったりもするのね。
でも、ゲームをしている子どもの気持ちを理解できるようになってくると、ゲームをしている子どもには何ら問題が無いことは理解できると思う。
ゲームを問題視するよりは、子どもと楽しくコミュニケーション取れるにはどうしたらいいのか、考えよう、って思う。