読者コメント
1人目
親が子供を問題児にしてしまうという発想に、はっとしました。
本文
子どもに対する不安や、心配があると、親の『問題生成能力』が活発化します。
「この子はゲームばっかりでヤバいんじゃないか」
「この子は全く勉強しなくてヤバいんじゃないか」
「この子はこの年にもなって、これくらいしかできなくて、発達が遅れているんじゃないか」
「この子はこのままだと高校に進学できないんじゃないか」
「高校に進学できないのはゲームばっかりしているからで・・・(堂々巡り)」
って。
あらゆることにおいて、
「子どもに何か問題があるのではないか」
って思った時にまず考えてみてほしいのが
「子どもに何か問題があるのではなく、自分が子どもを『問題視』して、問題を作り出しているだけなのではないか」
っていうこと。
親に、問題を発見された子どもは、『問題児』になるわけですよね。
「問題を抱えている子ども」なんだから、問題の程度なんて関係無くて、問題児です。
親が、子どもに対して問題を作り出せるということは、親は、子どもを問題児に仕立て上げられる、っていうこと。
子どもに対して不安や、心配を感じれば、子どもの気持ちや、子どもの可能性が見えなくなり始めて、子どもを問題児に仕立て上げ始めます。
僕は、子どものことで、それが問題かどうかを決めるのは、子ども自身だ、って思っています。
親が、子どものことで、何か問題がある、って思い始めた時、それは
・親は、子どもに対して理想を持っていて、その理想通りに育ってほしいと願っている
・親の目には、子どもが親の持っている理想通りには育っていないように思える
っていうこと。
子どもが、親の理想通りに育っていないと、子どもに対して不安や、心配が出てくる。
「あれ、本当はこうなっているはずだったのにな」
って。
そしたら、自然と、子どもを理想通りの路線に戻そうと、まずは子どもを問題視して、子どもに対する不安や、心配が湧き起こってきて、子どもをコントロールしようとし始める。
「何とかして、【私が】元に戻してあげなきゃ」
みたいな気持ちが出てくる。
親としての使命感のような、正しいことをしているような気持ちにもなる。
子どもが実際に困っていれば、子どもが助けを求めていれば、需要と供給が一致している。
でも、子ども自身は困っていなければ、その親の助けは、子どもの自己肯定感を下げ、主体性を鈍らせ、能力の向上も鈍くなる。
子どものことは、子ども自身が問題視し始めてから、どうするのか考えればいい。
そこからでも全然遅くない。
昨日のメルマガにも書きましたが、親が子どものことを問題視し始めると、親はプレイヤーになろうとします。
自分が子どもを何とかしようとしたり、自分が子どもの課題を何とかしようとしたり。
でも、子どもを育てたいなら、親はプレイヤーじゃなくて、マネージャーのポジションにいた方がいい。
ちょっと話は変わるんですが、最近、僕がなぜに今の活動を始めたのか、っていう原点を思い出すことをしばしばしています。
僕の原点は、
「自分に子どもができたら、子どもを天才にしたい」
っていう想いからです。
何を持って天才とするのか、っていうと、やりたいことを貫き通すことができたら、です。
類まれなる才能があるとか、何か世界的に誇れる実績がある、っていうのは、本人が求めるなら、求めたらいい。
自分が生きたい人生を生き、自分が得たいものを得て、自分が活躍したいフィールドで活躍する。
そこを貪欲に求めてみてほしい、っていうのが元々の原点でした。
「じゃあ、子どもにやりたいことを貫き通してもらうためには、どうしたらいいのか?」
っていう問い掛けで出てきたのが、
「親がコーチングを学んでいることだな」
っていうことでした。
『遊びの解放』を大前提とすれば、やりたいことがたくさん増えてきます。
親が子どもを押さえつけたり、コントロールするのをやめた時、子どもはやりたいことが増えます。
たくさんやりたいことが増えた時、どれが一番やりたいのか?っていうことが重要になります。
そこを一緒に考えるのが『コーチング』です。
そんな理由があって、コーチングを学びました。
元々は、自己満足というか、100%自分のための学びだったし、コーチングでした。
でも、いざメルマガやブログなどで発信してみると、たくさんの共感が得られ、何だか色んな人のお役にも立てているようで。
ならば、仕事にしてしまおう!っていうので、現在があります。
僕がやっているコーチングは、
「子どもとの関係をどうしたいの?」
っていうことを突き詰めていくものです。
僕のところに相談に来てくれた人が、どれだけ子どもが抱えている問題のことを話してくれても、子どもに問題がある、とは考えないんです。
子どもには、問題があるかもしれないし、問題が無いかもしれない。
そこは、親からの話だけでは分かりません。
その次に考えるのが、
「親は、子どもの何を見て、問題だと思っているのか」
です。
出したおもちゃをその場に放置していないことを見て、片づけられない、って言っているのか。
学校から帰ってきて、親が声をかけるまで宿題をしないことを問題だと言っているのか。
いつもゲームしていて、将来のことを全く聞いたことなくて、将来のことを考えていない、って言っているのか。
親が、子どもを問題視することが問題ではなくて、子どもを問題視し始めたのには、必ずキッカケがあります。
コーチングを進めていくと、
「親が変わる必要がありますね」
「なんだ、何も問題はなくて、何も変える必要がなかったんですね」
って、相談に来てくれた人が気付くことがあります。
僕の方からは、
「あなたのここが問題です」
って指摘することはありません。
それこそ、それは僕が親を問題視しているに過ぎないので( ゚Д゚)
コーチングを進めていった結果、
「実は、子どもはこれに困っていた(=問題があった)」
っていうことに気付くこともあります。
子どもが抱えていたであろう問題を何とかしようとしていたけれど、問題が間違っていた、っていう場合ですね。
親が子どもに対して立てた問題が正しい場合は無いのか、っていうと、これはあんまりないんじゃないか、って思っています。
なんでかっていうと、正しい問いを立てられていた場合は、
・その問題は、解決に向かって進んでいる
か、
・その問題は、今は自分には何ともできない
っていうように、事態を明確に捉えることができるから、悩まないんです。
長いこと同じ問題に悩まされている場合は、大抵の場合、
・立てた問題が間違っている
・そもそも解けない問題を解こうとしている(=親には何ともできないこと)
のどちらかです。
・正しい問いを立てていて、長いこと解決できていない
っていう場合は、ありません。
問題が大きすぎて、解決するのに時間がかかるものは、細分化していけば、実はちゃんと解決に向かって進んでいってることが見えてきます。
子育ては、「子どもが自立できるのかどうか」っていうかなり大きな問い、と捉えることもできます。
それでも、小さく見ていくと、できていること、進んでいることはたくさんあるはずです。
親が、子どものことで問題視をし始めた場合、コーチングを受けてみたり、自分がコーチングできるようになってみると、するするとほどけていくことがあります。
佐伯コメント
親がコーチングを使えることは、これからの教育にとても大事なことだと思う。
言い方を変えれば、才能を発揮している子どもの親は、専門的なトレーニングを受けていなかったとしても、ナチュラルにコーチ的な関わりをしていたんじゃないか、って思う。
分かんないけれどね。
少なくとも、
・指示命令型
・原因追求型
・他者比較型
・賞罰教育
みたいな従来のコミュニケーションの取り方では、子どもの才能は伸びるどころか潰れてしまう。
だから、「子どもの才能を伸ばす」ということに関する専門性は、親もある程度持っていてもいいんじゃないかなぁ、なんて思っているんですよね。