読者コメント

1人目

本日の記事です。まさにその通りで、うちの子は発達障害ではないかと思った事がありました。

できんもんは、できん の話納得で、障害かもと思うのはナンセンスですね。

じゃあどうしたらできるようになるのか、放っておいたら、いつかは出来るようになるのかは、まだ考えそうですが。

2人目

今、まさに私がもやもやしてる事で、ずどんと心に入ってきました。

3人目

いちばん最近にフラグつけたメルマガです。
発達障害かもしれんと、小さい頃から感じていたから。

本文

子どもが時間を守らない。
 
 子どもが忘れものばかりする。
 
 子どもが言ったことをやらない。
 
 子どもが勉強に意欲を示さない。
 
 子どもが同じ問題を何度やっても間違える。
 
 
 
 何度やっても、何度言っても、改善されない時、親の中にふとこんな思いが湧いてきます。
 
 「あれ、この子・・・もしかして、発達に問題があるのかしら?」
 
 と。
 
 
 
 発達の問題を疑う前に知っておいてほしいことがあります。
 
 それは、
 
 
 
 『できんもんは、できん』
 
 
 
 
 っていうこと。
 
 
 
 親が、子どもの発達を疑う時にやりがちなことが4つあります。
 
 
 
 1.自分を基準に、子どもの発達を考える
 
 2.他の子どもを基準に、子どもの発達を考える
 
 3.育児書や、何らかの理論を基準に、子どもの発達を考える
 
 4.他人に言われたことを基準に、子どもの発達を考える
 
 
 
 です。
 
 
 
 そうやって、子ども本人”以外”を基準にして、
 
 「他の人と比べて、この子は発達が遅れている」
 
 とかってやる。
 
 
 
 ほんで、
 
 「もしかして、発達障害かしら」
 
 とかって不安になったり、心配したりする。
 
 
 
 
 
 
 
 これ、僕は日本教育の賜物というか、弊害だと思っています。
 
 子育てがどこかに正解があると思ってしまう。
 
 自分が正解なのか、不正解なのか、決まっていないと何だか落ち着かないというか、不安になっちゃう。
 
 
 
 「子どもが〇〇歳では、××くらいまで発達している」
 
 っていう基準があって、そこをクリアしていると自信が持てるんだけど、クリアできていないと不安になる。
 
 
 
 また、自分がクリアしていると、心のどこかでクリアできていない子どもを見ると安堵しちゃう。
 
 もっとストレートな言葉で言えば、心のどこかで発達に課題を抱えた子どもを下に見たり、バカにする気持ちがあったりする。
 
 安堵するのは、その気持ちの裏返しなわけですね。
 
 
 
 その親にとっては、基本的な教育指針は、
 
 ・他人との比較
 
 ・正解か、不正解か
 
 で成り立っているから、子どもにもそのように関わる。
 
 
 
 子どもが正解しているのかどうか。
 
 子どもが他人よりも優れているのかどうか。
 
 
 
 そうやって関わられた子どもは、
 
 「他人に決めてもらわないと、前に進まない人間」
 
 に育っていきます。
 
 
 
 親が他人との比較をして、正解か、不正解かを判断して、子どもはその教育を受けるわけです。
 
 「なるほど、世の中では正解しているやつが偉いんだな」
 
 「そうか、あいつよりも優れていればいいんだな」
 
 と。
 
 
 
 そうすると、子どもは親から受けた教育通り、友達など、他人を何かと比較して、正しいか正しくないかで関わるようになります。
 
 あいつはすごいけど、あいつはバカだ、みたいな。
 
 子どもの心には恐怖と安堵の繰り返しがあったりします。
 
 
 
 親に、他人との比較グセがあると、子どものダメなところは無限に見つかります。
 
 この親もまた恐怖と安堵の繰り返しだったりします。
 
 誰かに承認してもらわないと安心できないわけですね。
 
 
 
 何が怖いのかっていうと、
 
 「できないこと」
 
 「失敗すること」
 
 が怖い。
 
 
 
 だから、自分も失敗しないようにするし、子どもにも失敗しないようにする。
 
 失敗するなら、何とかして改善しようとする。
 
 失敗するなら、イライラする。
 
 怖いからね。
 
 
 
 イライラの裏返しは、怖さです。
 
 寂しくなる怖さ。
 
 バカにされて、自分の評価が下がるのが怖い。
 
 人から構われなくなるのが怖い。
 
 ・・・から、その怖さに打ち勝つためにイライラしちゃう。
 
 
 
 「できないことが許せない」
 
 「失敗が許せない」
 
 で言えば、優秀な親と、その子どもの関係もあります。
 
 
 
 冒頭に書いた、
 
 
 子どもが時間を守らない。
 
 子どもが忘れものばかりする。
 
 子どもが言ったことをやらない。
 
 子どもが勉強に意欲を示さない。
 
 子どもが同じ問題を何度やっても間違える。
 
 子どもが何をやっても段取りや要領が悪い。
 
 
 っていうようなことがあると、自分の心の中にある、自分が当たり前にできてることだったりするから、
 
 「できないこと」
 
 「失敗すること」
 
 が許せない。
 
 自分の中にある当たり前が崩れるのが怖い。
 
 その怖さで、子どもに怒りをぶつけてしまう。
 
 
 
 
 
 
 
 ここで、さっき書いた非常に大切な考え方が出てきます。
 
 
 
 『できんもんは、できん』
 
 
 
 ってこと。
 
 ここをしっかり認めてあげる。
 
 
 
 ここを認められたら、発達障害が無くなります。
 
 だって、できないことを問題視しなくなるからね。
 
 
 
 ここを認められたら、子どもにイライラするシーンが激減します。
 
 「この子は、これができひんねや」
 
 って。
 
 
 
 そして、できないことをがんばって、何とかしようとしない。
 
 できないことをがんばって改善させようとしない。
 
 
 
 他人との比較をやめて、目の前の子どもを基準で子どものことを考える。
 
 優秀な人は、自分と子どもを比較するのをやめて、目の前の子どもを比較で子どものことを考える。
 
 
 
 で、
 
 で、
 
 で、
 
 子どものできないことを見つけた時に、知っておくといいのは、
 
 
 
 『自分と、子どもは違う人間だから、どうがんばっても理解できないこともある』
 
 
 
 っていうこと。
 
 子どもは宇宙人だと思ったらいい。
 
 そしたら、逆に親も子どもから宇宙人やと思われてたりするから(笑)
 
 
 
 「なんでそんなにイライラしてんのか、意味わからん!」
 
 って(笑)
 
 
 
 たとえ親子であっても、全くもって分かり合えないことがある。
 
 1mmも理解できないことがある。
 
 
 
 親に理解できない子どものできないところを、何とか理解しようとして、
 
 「この子は発達障害のケがある!」
 
 ってやって理解しようとすると、めでたく?発達障害の誕生となります。
 
 
 
 できんもんは、できん。
 
 親と子どもは違う人間なんだから、全く持って分からんこともある。
 
 
 
 それでええやん、って思います。

佐伯コメント

この記事は、発達障害の話を目にするたびに、違和感を感じていたことです。
発達に個人差はあれど、『障害』と言うためには、

 

・正解(障害無し)
・不正解(障害有り)

 

を分けないと言えないわけですよね。
ということは、正解と、不正解の間に何か判断基準があるはずで。

 

基準があるということは、その測定の仕方は1つの尺度で測っている、っていうことですよね。
違う人間の話を、同じ次元で考えている、ってこと。

 

『障害』なんて言葉を使わずとも、そもそも、お互いが助け合っているような社会ができるといいなぁ、っていう想いを込めて書きました。