読者コメント

1人目

音よりも、今その子がどんな気持ちなのかを、しっかり感じること。

 

ありがとうって言いなさい、ということに違和感があったことを言語化してくださいました。

 

【言葉の奥にある子どもの気持ちや、意図に目を向けてあげたい。】が印象的です。

本文

子どもの言葉遣いについて。
 
 
 
 日本人の心の一つに『言霊』っていうものがあります。
 
 これは、もうちょっと正確な言い方をすれば『言霊信仰』です。
 
 世の中の真実として『言霊』っていうものがあるというよりも、僕らが『そう信じている』っていうものです。
 
 
 
 言霊を信仰していると、言葉を意味や意図を伝え合うメッセンジャーとしての役割を持っているのに加えて、その『音』にも意味を持たせるようになります。
 
 言葉は、どういう文脈で使われるかによって意味が変わるはずで、どれだけ汚い言葉を使っていても、それが勇気付けになることもあれば、どれだけ綺麗な言葉を使っていても、それが相手を傷つける刃になることもあります。
 
 言葉は、辞書的な意味で定義されるのではなく、文脈によって意味が定義されます。
 
 
 
 例えば、「がんばれよ」っていう言葉。
 
 もう既にめちゃくちゃがんばってて、もうこれ以上無理!って言う人に対して、「がんばれよ」っていうと、何だか突き放している感じになったり、気持ちを分かってくれない、殺す気か!みたいになる。
 
 でも、その人の尊敬する人が、自分の可能性を信じてくれていて、お前の力はそんなもんじゃない、っていう意味で「がんばれよ」っていうと、何だかがんばれたりする。
 
 同じ状況なんですけど、誰が言うかとか、どういうシチュエーションで言うのかによって、言葉の意味や、どう受け取るのかが変わってきます。
 
 
 
 言葉は、元々は『音』そのものには、意味はありません。
 
 でも、言霊信仰を持っていると、その音にも意味というか、実感を持たせようとします。
 
 どういう文脈で使われているかに関係なく、その言葉の音に注目することで、それが『呪詛』に聞こえたり、『祝福』に聞こえたりします。
 
 
 
 例えば、「ほら、『ありがとう』って言いなさい」みたいなのがそうですね。
 
 どういう文脈で使われているかとか、その言葉に本人がどういう意図を持たせているのか、どういう気持ちで言っているのかじゃない。
 
 「ありがとう」って言っているかどうかが大切なんです。
 
 つまり、親としては、その『音』を聞きたいんですね。
 
 
 
 子どもがどれだけ感謝していても、「ありがとう」っていう音を聞くまでは、その感謝を認めない。
 
 逆に言えば、感謝していなくっても、「ありがとう」っていう音さえ聞ければ、感謝しているとみなそう、っていうものですね。
 
 
 
 「ありがとう」みたいな”綺麗な言葉”は使わなければならなくて、「ムカつく」みたいな”汚い言葉”は使ってはいけない、っていうルールを作り始めます。
 
 言葉を文脈や意味、その時の気持ちではなく、その言葉そのもの、その言葉の音で、子どもの発言を縛るようになります。
 
 
 
 子どもがどういう気持ちで、その言葉を放ったのか。
 
 子どもがどういう意図で、その言葉を放ったのか。
 
 それは一切関係ない。
 
 
 
 子どもがその言葉を使ったこと。
 
 親がその音を聞いたこと。
 
 そこにルールを作り始めます。
 
 
 
 この時、親は、言葉そのものや、音を聞いて、その言葉がどういうものかを判別しています。
 
 ということは、自分が使う言葉の意味や、意図にも、鈍感になっている可能性があるんですね。
 
 子どもに投げかけている言葉に鈍感で、それが子どもを縛っていることや、逆に、何となく言っていることが子どもの勇気付けになっていることに気付きにくい。
 
 
 
 しかも、言霊信仰っていうものは、『信仰』自体が、一人よりも二人、二人より三人と、信じる人が多くなればなるほど、効力を発揮するものなんですね。
 
 ということは、『信仰』は、『世間体』とも結びつきやすいです。
 
 「その言葉を他の人が聞いたら、うちは戒律を破っているんじゃないかと思われてしまう!」
 
 みたいな怖れも生じる。
 
 
 
 子どもが汚い言葉を使った時点で、聞いている自分も嫌な気持ちになるし、こんな子を外に出したら、生きていけないんじゃないかとか、他の人に迷惑をかけるんじゃないか、って思ってしまう。
 
 そこに理由はなくて、そう信じているから、「この子を社会に出すのはまだ早い」みたいに思ってしまう。
 
 
 
 親が言霊信仰を持っていると、言葉の文脈上の意味や、どういう意図で使っているかよりも、その音そのものに注目します。
 
 そして、親が使い慣れた言葉であれば、意味や意図は関係なく、聞き慣れた音なので、子どもに注意しているような言葉でも、自分は使えてしまう。
 
 自分が使い慣れてて、聞き慣れた音であれば、そんなに不快感を感じないんですね。
 
 
 
 だから、
 
 「うちの子は、ほんとにダメで、まだまだで~」
 
 「うちの子は、バカなのよね~」
 
 「うちの子、全然可愛くないのよ~」
 
 とか言えてしまう。
 
 
 
 子ども自身が実際どうなのかは、そんなに関係ありません。
 
 自分が使い慣れた言葉を使って、謙遜を演出したいんですね。
 
 
 
 さっきの「『ありがとう』って言いなさい!」みたいな話と一緒で、親としてはただ『音』に注目して、言葉を発しているから、謙遜のつもりでいるんです。
 
 世間体を保つために、「うちの子はダメで」とか言っておけばいいだろう、みたいな軽い感じなんだと思います。
 
 可愛い子どもだもの、本気の本気ではそうは思っていない。
 
 
 
 これが言霊信仰の怖いところで、『音』や、『言葉そのもの(字面ね)』に注目するから、そんな気持ちがなくても、言葉を使えてしまうんです。
 
 一方、子どもの方は、まだ言霊のことなんて知らないから、言葉の意味や、意図で、自分が何を言われているのかを判断します。
 
 
 
 つまり、親は、本当にうちの子がダメだとは思っていなくて、軽い気持ちで言葉を使っているんですが、子どもの方は大好きで、大切な親に言われたことなので、その言葉の意味をしっかりと受け取ります。
 
 逆に、子どもが何気なく軽い気持ちで言った言葉の『音』に注目するから、「そんな汚い言葉を使ってはいけないでしょう!?」って、特定の言葉の使用ルールを定めようとします。
 
 
 
 こうやって、親の呪詛掛けが完成していきます。
 
 もはや黒魔術です。
 
 
 
 それこそ『呪詛(じゅそ)』って、呪いの意味を持った呪文のことです。
 
 呪文とは、意味を持たない言葉の羅列によって、相手に嫌な影響を与える言葉のことです。
 
 呪詛の対義語は『祝福』だそうです。
 
 『祈り』と言ってもいいかもしれません。
 
 これも、意味を持つかどうかよりも、聞いてて心地よい言葉を使うんでしょうね。
 
 
 
 つまり、呪詛も、祝福も、祈りも、決まり文句がある、ってことね。
 
 その決まり文句を言うことで、何らかの効果があると信じているのが『言霊信仰』です。
 
 意味じゃなくて、音であり、決まり文句を言うことが大切なんです。
 
 
 
 
 
 で。
 
 
 
 
 僕の主張は、3つです。
 
 1.言葉の音や、言葉を使うかどうかでは、子どもを責めないし、ルールも作らない。
 
 2.言葉のルールを作るのではなく、あくまでも「聞いてどんな気持ちになるのか」「どんなことを考えてしまうのか」を伝えるだけ。
 
 3.子どもが使う言葉の意味や、意図を改めて問うてみる。
 
 
 
 
 つまり、僕が危惧しているのは、
 
 「子どもがその言葉を使った瞬間に、ジャッジが下される」
 
 っていうことによって、
 
 「子どもに呪いがかかること」
 
 です。
 
 
 
 ここで言う『呪い』というのは、
 
 ・言葉の”無機質な”制約ができる
 
 ・親の言葉によって子ども自身が自分にネガティブなラベルを貼る
 
 っていうことね。
 
 “無機質な”って言っているのは、その制約に、「気持ち悪い言葉を聞いた」みたいな、意味ではなく、音によるもの、ってことです。
 
 言葉の意味や、意図という理性的なものではなく、物理的な音による制約のことを『無機質な制約』って言っています。
 
 
 
 あくまでも、「何の言葉を使うといいか」「何の言葉は使わない方がいいか」っていうルールは、
 
 「子どもが伝えたい気持ちや、意図を聞いてからジャッジする」
 
 っていうことね。
 
 
 
 言葉を聞いた瞬間に、使ってOKか、NGかはジャッジしません。
 
 まずは、その意図や、意味を聞きます。
 
 自分が嫌な気持ちになる言葉を聞いたとしても、そこはグッとこらえます。
 
 それは、僕ら日本人の持つ『言霊信仰』によるものだから。
 
 信仰は、呪いを作る可能性を持っているから、グッとこらえたいところ。
 
 
 
 子どもが伝えたい言葉や、その言葉を使った意図を聞いたら、
 
 「より的確に伝えるためには、どういう表現がいいか」
 
 を一緒に考えたりします。
 
 
 
 
 「そういう気持ちを伝えたい時は、○○っていう言い方をするといいよ」
 
 「あなたの言いたいことは、○○っていうこと?」
 
 「それなら、○○って言ってみたらどうかな?」
 
 
 
 みたいに、相手がより受け取りやすそうな表現を一緒に考えてみたり、提案してみたりします。
 
 言葉そのものを縛るのではなくて、
 
 ・子どもが何を伝えたかったのか
 
 ・それは、何て言えば、より伝わりやすいのか
 
 っていうのを考えます。
 
 
 
 じゃあ、このコミュニケーションはどこで差し込めばいいのか。
 
 初級編は、言霊による判別です。
 
 過激な言葉を使った時、汚い言葉を使った時、ですね。
 
 
 
 上級編は、子どものステイト(心の状態)の変化による判別です。
 
 これができれば、よく聞く言葉を聞いた時ですら、
 
 「おや、何かあったんかな?」
 
 って気付けます。
 
 
 
 
 
 
 
 最後に、コーチングの考え方に
 
 「相手は信じるけれど、相手の言葉は信じない。」
 
 っていうものがあります。
 
 
 
 これも「信じない」っていう言葉だけ聞くと、
 
 「えっ・・・」
 
 って思うかもしれません(笑)
 
 
 
 子どもは、自分の言いたいこと、自分の気持ちに、自分で気づいているとは限りません。
 
 仮に気付いていたとしても、それを言葉を使って正確に表現できているか、っていうと、そうとも限りません。
 
 
 
 よく分からない気持ちを、よく分からない言葉で表現しちゃうことがあるんです。
 
 だから、言葉に注目すると、ミスコミュニケーションが起こります。
 
 そうじゃなくて、
 
 「この子は、今、どんな気持ち?」
 
 「この子は、今、何を感じているの?」
 
 「この子は、今、何を考えているの?」
 
 「この子は、今、何を伝えようとしてくれているの?」
 
 っていうことに注目して、コミュニケーションを取っていきます。
 
 
 
 言葉に振り回されない。
 
 言葉を安易に信じない。
 
 信じるのは、
 
 「子どもには、子どもなりの理由がある」
 
 「子どもは、善意で動いている、話している」
 
 っていうことです。
 
 
 
 言葉が綺麗か汚いか、ではなくて、その言葉の奥にある子どもの気持ちや、意図に目を向けてあげたい。
 
 そして、どういう表現をすれば、その気持ちや、意図がより的確に表現できるのかを一緒に考えたい。

佐伯コメント

日本古来の教育手法でもある、

「ありがとうは!?」

「ごめんなさいって言いなさい!」

っていうやり方は、ほんとに無意味だと思います。

 

そりゃ、そんなやり方していたら、子どもは言葉を適当に扱うようになるよね、って思う。