読者コメント
1人目
このメールに救われました。上の子が3歳半になるぐらいまで厳しいしつけ、「こうじゃなきゃ」っていうこだわりで子育てをしていて、子供が言いたいことを言えずに、親の顔色をうかがっているような態度を見て、子供らしさを抑えてしまっていたな・・・と子供に悪いことをしたと後悔していたんです。
自分の言いたいこと言える子になってほしいのに、親の自分がそれを受け止めることができていなかったと反省。
「人は何歳からでも変われる」なら、子供もそうですが、私も変われるんだと勇気をもらえました。
本文
というわけで、32歳になりました。
親のためのコミュニケーション講座-BASE-でサプライズでお祝いもしてもらって、
「このサプライズ企画で、みんなの共同体感覚が高まりました」
なんて言うもんだから、
「じゃあ、何度でも誕生日しますよ笑」
って思ってみたり。
いやぁ、幸せですね。
ありがとうございます。
32歳になっても、メルマガでは相変わらず、親子の話を書いていきますよ。
昨日、BASEのお昼休みあたりに話していた話が「三歳児神話」についてです。
三歳児神話って、
・子どもが三歳になるまでは、母親がぴったりくっついて愛情を注がなければならない
・子どもが三歳までに獲得したものによって、その後の人生が大きく左右される
みたいな話です。
つまり、「子育ては三歳までが勝負だよ」って話です。
僕はあんまりこういう類の話に興味はなくて、どちらかと言えば、アドラー心理学の『創造的自己』の話、すなわち、
「人は、いつからでも、いつでも、主体的な選択によって変われる」
って話が希望があって好きです。
実際、僕の師匠の平本あきお氏は、日本におけるカウンセリングのトッププレイヤーであり、彼の公開カウンセリングの場で、それこそ、
「3歳ぐらいの時に、親から受けた影響が書き換わる」
という場面を何度も何度も目の当たりにしてきました。
あの場面を見てしまうと、
「3歳までにしっかりと愛情を注げていなかったらヤバい」
っていうのが真実ではなく、
「なるべく愛情は注いでた方がいいけど、それができてなくても、後からでも挽回はできる」
っていう方がより真実に近いんじゃないかな、って思うんです。
親が子どもにとって深刻なコミュニケーションを取ってしまうと、子どもの方に課題が作られます。
なので、可能ならその課題作りを避けて、愛情を注いでやる方がいいのかもしれない。
フロイト的な考えをすれば、それを『トラウマ』と言って、排除すべき悪いものだ、って認識してた。
でも、たとえ親が子どもに禍根を残したところで、子どもは後々に、自力か、他力を借りながら、乗り越えることができる。
だから、親が子どもに深刻なコミュニケーションを取って残したものは、禍根や、問題なのではなく、課題だ、って捉えることができる。
つまり、どうしようもない、解決が困難な『問題』ではなくて、解決する意志さえあれば乗り越えられる『課題』なんだ、ってこと。
親子の関係は、「3歳ぐらいまでの関わりで、今後の成長が左右される」というような『固定的』な発想ではなくて、「子どもが抱えた課題は、あとから何とでもできる」というような『流動的』なものだと思うんです。
そういう意味で、子育てに失敗はあり得ない。
「私は子育てに失敗しました」
って思ってる人は、僕なりの観点で捉えれば、
「子どもに課題を与えた」
「子どもに課題を乗り越える手間を与えてしまった」
っていう程度のもんだと思うんです。
だから、
「すまん!我が子!」
くらいで済む話なんじゃないかな、って思う(笑)
僕のメルマガを読んでくれてるぐらいなので、親子で日々進歩してると思うのね。
気付いてる気付いてない、って話はあるかもしれないけれど、メルマガ読んで、学んだり、実践してくれたりしてるなら、間違いなく進歩してる。
その進歩は直線的とは限らないだけで。
進歩してるなら、十分じゃないかな、って思う。
自分で言うのもなんだけど、僕のメルマガを読んでる以上は変化せざるを得ないと思ってるし、進歩せざるを得ないと思ってます。
だから、もう、メルマガを読む前の親子関係には戻れないと思ってもらった方がいい(笑)
三歳児神話について、ちょろっと調べて見た感じ、どうも今から50、60年前くらいに出てきた考え方らしい。
僕の想像も多分に混じるんですけど、これくらいの時期って、心理や、カウンセリングの業界でも、
「人は変化しづらく、長い時間をかけなければならない」
っていう考え方が主流だったんじゃないかな、って思います。
フロイトのような原因論的なカウンセリングは、問題点をたくさん見つけていくので、治ってるのか、深刻になってるのか、よく分からない状態が長く続くらしい。
トラウマの治療なんかは、短くても何ヶ月で、何年もかかることがザラにあったらしい。
しかし、同時に、アドラー派の目的論や、創造的自己、って話や、セラピー業界に多大なる影響を与えた催眠療法家ミルトン・エリクソンの活躍や、認知行動療法などの発達もちょうど同じくらいの時期。
だから、そういう心理業界の最先端、人の価値観や信念、人格すら変化していくし、それどころか、自分で自由に決められる、っていうことを知らなかったのではないか、って思うんです。
「三歳児神話」って言い出した人は。
この話は僕の想像です。
「人は何歳からでも変われる」
っていうのは、僕が目の当たりにしてきたことだし、僕がそう信じてることです。
だから、「子育てが上手くいかなかったな」って思ってる人は、「間違えちゃった。てへ」くらいで、これから関わり方を変えていけばいい話なんじゃないかな、って思っています。
親子関係は何とでもできるし、親子関係が何ともならなくても、子どものことは子ども自身が何とかしてくれます。
子どもにとって親子関係がしんどいものなら、子どもが自分の判断できっちり距離をとってくれます(笑)
だから、親は進歩さえしてれば、自分のままでいればよくて、進みたい方向に進んでいけばいい。
無理に、自分じゃない誰かになる必要はない。
喜びたい時に喜んで、怒りたい時に怒ればいい。
言いたいこと言っていいし、やりたいことやっていい。
それがベースにあってからの周りとの調和を考えていく。
三歳児神話もまた、この逆の順序を辿ってしまう考え方かな、って思います。
3歳までにがんばらないといけないから、自分じゃない誰かみたいにやらなければならない、みたいな。
逆に言えば、3歳までに十分愛情を注いでれば、そのあとは注がなくてもいいのか、って言えば、そんなこともないんじゃないかな、って思う。
親子関係は良好にし続けていきたいし、親が親でなくなることはない。
でも、それはいわゆる「しっかりした親」とか、「親としての責務を果たすべき」って話ではなくて、「大阪で生まれた以上は、出身は大阪」っていうぐらいの話です。
「だから、関西弁を話さなければならない」
「だから、たこ焼きをひっくり返せなければならない」
「だから、ボケかツッコミができなければならない」
っていうのは言い過ぎですよね。
逆に、仮に大阪以外のところに住んでたら、大阪人としてのアイデンティティを捨てなければならないか、っていうと、そんなこともない。
大阪で生まれた事実は消えないし、その特性を使っても使わなくてもいい。
せっかくなら、楽しく使いたいよね、って感じ。
人は変われるし、どんどん変わっていく。
だから、「〇〇歳までに、こうしなければ!」って必死にならなくてもいいんじゃないかな、って僕は思います。
佐伯コメント
子どもへの教育は、なるべく早い方がいい。
でも、それが上手くいく時も、上手くいかない時もある。
上手くいった時はいいけれど、上手くいかなかった時に、子どもの人生はダメになるのか!?っていうと、そうでもない。
三歳で子どもの何かが決まるのだとしても、それはすなわち、子どもの人生の失敗を意味しない。
子どもの人生は、何歳からでも、全然好転させられる。
「あなたの育て方は、失敗だった」
なんて思われた子どもは、たまったもんじゃないのよね。