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結果を褒めてはダメ、というのを表層的な理解しかしていない、そもそもアドラー心理学の理解も中途半端なんだな、と気付かされました。

本文

子どもが何をしたのかに注目をする『結果重視型』のコミュニケーションと、子どもがどう取り組んだのかに注目をする『過程重視型』のコミュニケーションは、子どもの成長に大きな変化を見せるんじゃないか、って思っています。
 
 
 
 結果重視型のコミュニケーションは、親の評価基準は、
 
 「やったか、やらなかったか」
 
 「できたか、できなかったか」
 
 です。
 
 
 
 日本の親子関係の多数派だと思います。
 
 「~しなければならない」
 
 「~すべき」
 
 「~させる」
 
 みたいなのが口癖になるのかな。
 
 
 
 親が結果重視型の場合、子どもがやることなすこと、上手くいっている間はいいんです。
 
 がんばって、努力して、チャレンジして、上手くいった。
 
 そしたら、親は褒めてくれる。
 
 嬉しい。
 
 
 
 問題は、上手くいかなかった時です。
 
 親は結果重視型なので、
 
 ・子どもが言ったことをやらない
 
 ・子ども自身が「やる」って言ったのにやらない
 
 ・上手くできなかった、失敗した
 
 っていうことが起こると、親はキレます。
 
 
 
 子どもがジュースをこぼした。
 
 「なんでこぼすんだ!」
 
 
 
 子どもの成績が悪かった。
 
 「なんでもっと勉強しなかったんだ!」
 
 
 
 子どもが学校に行かなかった。
 
 「ほら、学校に行かないと色々困るよ?」
 
 
 
 みたいな。
 
 結果を重視しているから子どもがやったことに結果が伴わなかったり、このままやると望んだ結果が出なさそうだな、って思ったら、不安になったり、イライラしたりします。
 
 
 
 結果重視型がダメなのか、っていうと、結果を重視しているので、結果は出やすいです。
 
 でも、子育てや、教育には不適切な考え方です。
 
 
 
 なんでか、っていうと、結果重視型は、人を育てるどころか、人を潰していくから、です。
 
 結果重視型ということは、
 
 結果 > 人
 
 なんです。
 
 
 
 何を考えたのか。
 
 何をがんばったのか。
 
 どう取り組んだのか。
 
 
 
 そんなことよりも、上手くいったのかどうか、やったのかどうか、できたのかどうかが大切。
 
 子どもの成長や、取り組み、試行錯誤を意識しているようで、あんまり興味ない。
 
 だから、子どもがやらなかったり、失敗すると、キレます。
 
 
 
 人よりも、結果を重視するから、人が成長しにくく、人が潰れていきます。
 
 ストレス耐性が高い人や、ガチガチに心を鎧で固めたような人か、結果を出すことを楽しめる人でないと、潰れていきます。
 
 
 
 某総書記のいる国とか、中世ヨーロッパの工場労働者なイメージです。
 
 日本も、戦争に負けて、従順で能力の高い人材を育てようとして、そんな教育が取り入れられました。
 
 
 
 
 
 
 
 じゃあ、過程重視型はどうかと言えば、これは「どう取り組んだのか?」っていうところに価値を置く思想ですね。
 
 これは、言い換えれば、「やる気のないやつは排除」っていう発想に繋がります。
 
 なので、現実逃避をしやすい子どもを育てがちになるんじゃないかなぁ、って思います。
 
 
 
 結果重視型の場合は、最後の結果が一番大切なんですね。
 
 過程重視型の場合は、結果が散々でも、それまでの過程で努力していればOK、っていう考え方です。
 
 その努力や、取り組む態度を評価しましょう、っていうもの。
 
 
 
 「結果は残念だったけど、よくがんばったじゃん!」
 
 っていうのが過程重視型のコミュニケーションの取り方です。
 
 がんばってさえいればいい。
 
 
 
 「結果ではなく、過程を褒めましょう」
 
 って育児書になんかは書いてあることがありますが、でも、そもそも、子どもががんばれなかったら?
 
 そこに盲点があるな、と。
 
 
 
 「アドラーも、結果じゃなくて、過程を褒めろ、って言っているじゃないか」
 
 って思うかもしれませんが、アドラーはそもそも、褒めることや、評価することを推奨していないんです。
 
 それよりも、共同体感覚が高まるコミュニケーションを推奨しています。
 
 勇気付け、ってやつですね。
 
 
 
 
 結果に対して、「すごいね!」って褒めても、過程に対して、「がんばったね!」って褒めても、その親の気持ちが届かない子がいるんです。
 
 ということは、結果を褒めることも、過程を褒めることも、コミュニケーションの本質ではない、っていうこと。
 
 
 
 
 
 じゃあ、どうすりゃいいのか、っていうと、アドラー心理学を応用した『7つの習慣』っていう自己啓発書をご存じでしょうか。
 
 この中では、『人格主義』っていうのを採用しています。
 
 人格主義の回復、なんて言われていたりします。
 
 
 
 何をしたのか(DO)。
 
 どう取り組んだのか(HOW)。
 
 その2つに注目するんじゃなくて、そもそも、どういう在り方、スタンスなのか(BE)。
 
 
 
 この『在り方(BE)』に注目しましょう、っていうのが人格主義の考え方です。
 
 子どもに対するコミュニケーションで言えば、
 
 ・何を見ていて
 
 ・何を聞いていて
 
 ・何を感じていて
 
 ・どんな気持ちで
 
 ・何を考えていたのか
 
 ・その上で何をしていたのか
 
 っていう、アドラーで言うところの『全体論』ですね。
 
 
 
 個人は、人格の中に矛盾はない、っていう考え方です。
 
 つまり、本当の自分なんていなくて、全部自分だよ、っていうもの。
 
 何か葛藤していても、その葛藤のどちらも自分自身だよ、自分の一部なんだよ、っていうものです。
 
 
 
 この話をする時には、よく車のたとえで話されます。
 
 車のアクセルを抑制しようとしたり、ブレーキを取り除こうとしたりします。
 
 子どもが「やりたくない!(ブレーキ)」っていうのを、何とかしてやらせよう(アクセルを踏ませる)、みたいな。
 
 
 
 ブレーキは悪いものなんだ、って考える。
 
 でも、ブレーキを悪いものだと思って取り除いてしまうと、どうなるでしょうか。
 
 こんなの、考えなくても分かりますよね。
 
 
 
 止まるべき時に止まれないんだから、事故は必至です。
 
 アクセルも、ブレーキも、必要だからついているんです。
 
 大切なのは、アクセルとブレーキが、ちゃんと適切な時に使えていますか?っていうことが大切なんです。
 
 
 
 その使い方を子どもが学んでいくのが、子育てであり、教育です。
 
 アクセルを抑制したり、ブレーキを排除しようとするのは、子育てでも、教育でもないんです。
 
 リコール必至の車が作られるだけです。
 
 
 
 自動車教習所で、全てのブレーキを教官が操作していたら、受講者はどうなるでしょうか。
 
 ブレーキの扱い方を学べないんです。
 
 アクセルも同じ。
 
 
 
 受講者がアクセルも、ブレーキもある程度自由に使える状態で、どういう時にアクセルで、どういう時にブレーキなのかを、使いながら学んでいく。
 
 車が壁や他の車に激突しそうな時は、教官が緊急ブレーキを踏んだりします。
 
 最初は、安心安全な教習所内で、走行訓練をしますよね。
 
 
 
 子育てや、教育も、そんなイメージです。
 
 だから、初めは『遊びの解放』をして、アクセルも、ブレーキもある程度自由に使える状態じゃないと、子どもはどちらかを使えなくなるんですね。
 
 
 
 親が子どもがやりたいことを抑制すれば、アクセルが使えなくなります。
 
 遊びの抑制は、僕がよくメルマガに書いている「5年後10年後にやりたいことが無くなるよ」っていう状態に育っていきます。
 
 
 
 ブレーキの扱い方を教えないのは、放任や、放置ですね。
 
 「親は、見守るのが最善」
 
 と思って、何のコミュニケーションも取らないんです。
 
 
 
 だから、子どもは、たまたま失敗して「ブレーキをかける必要があるんだ」って思えればいいんですけど、そう都合よくいくことも少ないです。
 
 失敗したことが少なくて、ブレーキの必要性を感じられなかったり。
 
 大失敗をしてしまって、ブレーキの踏みすぎ状態になったり。
 
 
 
 あくまでも大切なのは、適切なブレーキの扱い方です。
 
 どんな時が適切なのか、っていうのが、『共同体の利益』っていう考え方です。
 
 
 
 自分も含めた共同体のメンバーにとってOKなら、それでいいじゃないか、と。
 
 そのうちの誰か一人でもNGなら、やめるか、話し合いましょう、と。
 
 そうやって、ブレーキの扱い方を学んでいきます。
 
 
 
 
 
 子どもが何かを学ぶ時には、結果だけ、過程だけを見ればいいんじゃないです。
 
 結果も、過程も、見たいんですね。
 
 そして、この2つは、子ども自身を評価するためではなく、あくまでも、目的論の学習をするための材料です。
 
 
 
 「○○をしたい」
 
 みたいな目的を持ったとします。
 
 
 
 その「したい」を実現するために、どう取り組んだら、どんな結果が出るのか。
 
 それが、子どもが元々持っていた目的を満たしているのかどうか。
 
 
 
 上手くいっているならそれでいいし、上手くいっていないなら、何をどう変えればいいのか。
 
 どうやったら、その目的が満たされるのか。
 
 結果と、過程を評価して、その目的が満たされているのかどうかを考える。
 
 
 
 つまり、目的なんだ、と。
 
 で、その目的は、子どもがどんな人格を持っているか、っていうことに繋がります。
 
 自分が、今までどんな人生を歩んできて、今、どんな人間なのか。
 
 そして、これから、どこへ向かおうとしているのか。
 
 
 
 そういうものが『人格』というものの中に情報として入っています。
 
 だから、子育ても教育も、子どもが何を、どう取り組んだのか、よりも、子ども自身を観察して、その子自身の理解を深めていかないことには、子育ても、教育も、やりようがないのではないか、って思います。
 
 子どもの進みたい方向を無視して、大人が用意した方向に進ませたところで、それは結局、大人側のエゴというか、子どもを道具にして、自分を満たそうとしているに過ぎないのではないか、って思うんです。
 
 
 
 まず、僕らが子育てや、教育に携わるに当たって、ぜひとも身に付けたいのは、子どもをよくよく観察する習慣です。
 
 子どもに対して、何か思ったり、感じたら、とにかくまずは、観察してみること。
 
 この子は、一体、どんな存在なんだ、どんな人間なんだ、と。

佐伯コメント

結果であっても、過程であっても、

「褒めること」

が本質なのではなくて、

「共同体感覚が高まって、行動したり、自己受容する勇気が湧いてくること」

が本質です。

 

そこがすごく大事だね、っていう記事でした。

子どもの気持ちが上がるなら、がんがん褒めたったらいい(笑)