読者コメント

1人目

【自立は、、、人生の主導権を自分が握っていること】

【自分を満たせていて、認められていて、その上で自分の見え方や、自分の気持ち、自分の考えを手放す。】

2人目

本当本当に心からそう思った!

本文

アドラーは、教育と子育ての目標は、子どもが自立と協力を身に付けることだ、といいます。
 
 自立っていうのは、自分の人生を自分で選択していて、人生の主導権を自分が握っていること。
 
 親でさえ、子どもの人生においては、子どもが主で、親が従。
 
 つまり、子どものことを力づくで何とかするとか、精神的にコントロールして、何とかさせるなんて、ご法度なわけですね。
 
 それが良いのかどうかはさておき、アドラーはそんな考え方。
 
 僕も、そこには全面的に賛成しています。
 
 
 
 協力っていうのは、相手目線に立てていること。
 
 相手目線に立てているというのは、
 
 ・自分を満たせていること
 
 ・自分を手放せていること
 
 ・相手に成り代わり、感じ、考えられていること(まるで相手自身のように)
 
 っていう感じ。
 
 
 
 自分を満たせていない状態での相手目線だと思っているものは、実は自己犠牲なだけなんです。
 
 自分を犠牲にすることで、何とかして自分の貢献感を満たそうとしている状態。
 
 でも、自己受容感が下がっているから、全体的にはエネルギーは低め。
 
 
 
 自分を手放せないっていうことは、結局それは自分目線なんです。
 
 昨日メルマガにも書いた「子どもの将来を案ずる」っていうのは、親が子どものことを自分目線で捉えている状態です。
 
 自分が不安に思っていることが実現してほしくないから、子どもを使って、自分の精神状態を安定させようとしているとか。
 
 自分が過去に嫌な体験や、嫌なことを学習してしまって、それを見たくないから、子どもにもそうさせないようにしているとか。
 
 
 
 これらのことを世間では、「親心」とか、「親だから」とか、って言っているように思う。
 
 「親なんだから、心配しちゃうよね」
 
 って。
 
 
 
 でも、そこはアドラーはちょっと厳しくて、
 
 「それは自分目線でしょ」
 
 って考える。
 
 実際のコミュニケーションでは、そんなにズバッとは斬らないけど(笑)
 
 
 
 自分を満たせていて、認められていて、その上で自分の見え方や、自分の気持ち、自分の考えを手放す。
 
 手放すだけなので、またあとで回収します。
 
 
 
 自分を満たしていたり、認められていないと、一時的に手放すだけでも、めちゃくちゃ怖くなるし、不安になるんです。
 
 なんとなく、自分が失われてしまったり、帰ってこないんじゃないか、っていう不安に駆られてしまう。
 
 だから、手放せない。
 
 だから、子育てをする時は、子どもよりも、まずは親が自分のやりたいことをやり、自分の気持ちを満たして、自分を受け入れていくことが非常に大切なんです。
 
 
 
 それで、「自分、けっこうイケてんな」って思えるようになってきたら、ちょっと安心して、手放せるようになってくる。
 
 自分の気持ちとか、考えとか、価値感とか、その辺を手放せるようになってきたら、ようやく相手目線に立てるようになります。
 
 これは、親が子ども目線に立つ時だけじゃなく、子どもが相手目線に立つ時も、子どもがどれだけ親から認められているか、っていうのが効いてきます。
 
 
 
 相手目線に立つ、っていうのは、自分の価値観とかを手放して、相手に憑依するような感じ。
 
 相手に「そこちょっとどいて」って言って(実際には言わないけどね)、どいてもらって、そこに立たせてもらう。(実際には立たないけどね)
 
 あくまでもイメージの中で。
 
 
 
 相手の立っていた場所、役職、状況に立たせてもらって、そこで起こっている出来事をさも自分が体験しているかのように体験する。
 
 あくまでもイメージの中で。
 
 その体験の中で、何が見えてて、何が聞こえてて、何を感じてて。
 
 どんな気持ちで、どんなことを考えそうなのか。
 
 そういうのを自分の中に作り上げていきます。
 
 
 
 自分は相手じゃないから、それでも分からないところがある。
 
 分からないところは自分の想像力で埋めることもあるんですが、できれば相手に聞きたいし、自分の同じような体験を持ってきたりもする。
 
 
 
 そうしたら、安易なアドバイスなんてとてもじゃないけれど、できなくなる。
 
 「こんなに辛かったんだね」
 
 「こんなに大変だったんだね」
 
 「Oh,my god・・・」
 
 
 
 僕はメルマガでは、アドバイスはあんまり書かないようにしています。
 
 アドバイスは書かないけれど、子育ての原理原則とか、心理学の理論とかは僕が書きたいから書いています。
 
 アドバイスはあくまでも求められた時だけ。
 
 求められたら、相手の言葉から状況をありありとイメージして、僕があたかもその状況になったようにイメージして、書かせてもらっています。
 
 
 
 相手の状況をありありとイメージしてしまうと、安易なアドバイスはとてもじゃないけれど、できないです。
 
 別に、僕が子育てしていないから自信が無いとか、分からない、ってことではないです。
 
 
 
 例えば、子どもが2人いて、ケンカしてて、おもちゃを投げ合ったりしてる。
 
 子どもが何だか暴力的な状況を聞いて、「それは愛情不足ですね」なんて、ありありと状況をイメージしているなら、とてもじゃないけれど言えないです。
 
 親には親なりの事情や、気持ちや、自分が育ってきた経緯や、色々あるわけです。
 
 子どもたちにも、事情や、気持ち、経緯とか、色々あります。
 
 
 
 自分が、親や、子どもの立場に成り代わって、同じ状況に置かれて、「それは愛情不足ですね」って言われたら、本当に素直に受け取って、
 
 「そっか。愛情不足なのか。じゃあ、愛情を注ごう!」
 
 なんて言えるのか?って言ったら、たぶん無理だと思う。
 
 きっとまずは傷ついちゃうんじゃないかな。
 
 
 
 安易なアドバイスをしちゃう時は、そのアドバイスを受け取った相手の気持ちや相手の反応はきっと考慮されていない。
 
 じゃあ、僕がするアドバイスはできているのか、っていうと、それこそ会ったこともない相手の相手目線で分からないことが多いから、「参考までに」って言って、お茶を濁しているんですけどね(笑)
 
 
 
 実際、その状況を一番よく分かっているのは、本人でしょうから、僕のアドバイスを採用するかどうかは、僕よりも、本人が下した方がいい。
 
 僕が自分のアドバイスを押し付けたところで、解決するならいいけれど、解決しなかったら、それは僕の自己満だ、ってなっちゃう。
 
 そんなの望んでないから、アドバイスする時は、必ず「参考までに」って言って、お茶を濁すようにしています。
 
 
 
 
 
 で、子どもに「もっと人の気持ちを考えて」ってアドバイスをする光景はよく見かけます。
 
 その時に、まず確認したいのが、
 
 「その時の子どもの気持ちは満たされている?」
 
 「子どもの話は、言い訳も全部含めて、聞けた?認めた?」
 
 っていうこと。
 
 
 
 僕らは日本文化としてなのか、「人様に迷惑をかけてはいけない」「謙虚でいなければいけない」と、自分をないがしろにしがち。
 
 でも、自分が満たされていない、認められていない状況で、人に迷惑をかけないようにとか、謙虚でいようとか、土台無理な話だと思うんです。
 
 とはいえ、自分が満たされれば、自動的に相手目線に立てるようになるのか、っていうと、そういうわけでもない。
 
 
 
 子どもが相手目線を考えられるようになるのは、自分の価値観を手放しても大丈夫なくらい自分を満たせているから、自分を認められているから、です。
 
 自分の価値観を手放しても、自分が傷つかないし、自分の価値が否定されたとも感じない。
 
 それだけ、親に認められてきて、心にエネルギーが充電されているから、自分の価値観とかを手放せる。
 
 
 
 例えば、子ども目線に立てない理由の一つに、自分が子どもの頃に、親から禁止されていたことだから、っていうのがよくあります。
 
 自分で考えたわけじゃなくて、親が代わりに考えてくれて、禁止してくれていたこと。
 
 それを子どもが破ると、イラッとしちゃう。
 
 
 
 これを自分も、一切の気持ちの我慢がなく「たしかに、これはやらない方がいいな」って納得しているんなら、きっとイライラは出てきません。
 
 優しく冷静に、
 
 「昔、親から禁止されて、たしかに、自分でもそうだなって思ったし、実際にやってみてヤバかった。
 
 だから、やらない方がいいんだよ」
 
 って言えたりする。
 
 自分も納得しているからね。
 
 
 
 でも、親から受けた禁止令に、心の底で納得していなければ、自分を認められていないならば、子どもがその禁止令を破ればイライラします。
 
 「自分はやらせてもらえなかったのに!」
 
 っていう嫉妬みたいな気持ちが出てくるから。
 
 
 
 こういう怒りは、「子どものために」って言いながら、自分目線に立っている状態の時に出てきます。
 
 子どもが解放されているのを見て、ある種、自分の気持ちを怒りに変換して解放している感じ。
 
 でも、それは本当の気持ちじゃないから、怒りを子どもにぶつけているうちは、決して自分が満たされることはない。
 
 
 
 
 
 
 自立は、協力の前提にあると思います。
 
 さっきも書いたように、自立の無い協力体制は自己犠牲になりがちなんじゃないか、って思います。
 
 
 
 子どもに「相手目線に立つ」っていうのを学んでもらうためには、まずは子どもが自分を満たせていて、自分を認められている必要がある。
 
 それを子どもが自分を満たして、自分を認めるためには、親が子ども目線に立てている必要がある。
 
 親目線で子どもにアドバイスしたところで、
 
 「お母さん(お父さん)は、僕の、私の気持ちを分かってくれてない!!」
 
 ってなるだけ。
 
 
 
 言っていることは、親目線や、合理性みたいな観点では間違っていないんですが、子ども目線で考えたら、間違っている。
 
 だから、子どもは受け取ってくれない。
 
 ここは「どうして、うちの子は理解してくれないのか」って親目線を押し通そうとするんじゃなくて、「この考え方では、子どもは受け取れないのか」って素直に、自分の考えを取り下げたいところ。
 
 
 
 そして、親が子ども目線に立つには、親がまずは自分の気持ちに気付き、それを満たし、認めていく必要があります。
 
 これは、あくまでも満たすのは気持ちであって、やりたいことをやれているかどうか、ではありません。
 
 
 
 例えば、子どもに怒りをぶつけたいんです!っていう人がいたとします。
 
 その人は、本当に、子どもに怒りをぶつけたいのか?っていうと、きっとそうじゃない。
 
 怒りをぶつけてどうしたいのか、っていうのもあるでしょうし、怒りの奥にまだ本心が眠っているはず。
 
 
 
 怒りの奥にあるものを見ない限り、子どもに怒りをぶつけたところで、得られるのは一時的な快楽だけです。
 
 おそらくまた怒りは湧いてきます。
 
 自分の気持ちを満たせていないから。
 
 
 
 やりたいことが本心でやりたいことなら、何とかして実行したい。
 
 やりたいことが本心でないなら、その本当の気持ちを見つけたい。
 
 
 
 自分でやるなら、粘り強く、自己探索するしかない。
 
 自分でやるのが難しければ、コーチングやカウンセリングを利用するのもあり。
 
 
 
 
 
 
 子どもに、アドラーの教育目標である自立と、協力を身に着けてもらうためには、まずは、親の自立と協力が必要なんです。
 
 順番に書けば、
 
 1.親が自分を満たし、自分を認める
 
 2.親が自分の価値観を脇に置き、子ども目線に立てるようになる
 
 3.子どもが親から認められる
 
 4.子どもが自分を満たし、自分を認められるようになる
 
 5.子どもが自分の価値観を脇に置き、親目線や、他人目線に立てるようになる
 
 っていうような順序だと思います。
 
 もしかしたら、どれか順番が前後することはあるかもしれません。
 
 
 
 自立と、協力っていう言葉を使うと、もしかしたら、「もっとがんばらなければ」って思うかもしれませんが、イメージはその逆です。
 
 きっとがんばりすぎて、親の役割を果たそうとしている人の方が多いと思うから、むしろ、親の役割を果たそうとがんばることをやめてやった方が、上手くいくことが多いようにも思います。
 
 その果たそうとしている親の役割は、本当にやりたいことなの?
 
 それとも、「親だから」という義務感でやっていることなの?
 
 
 
 本当にやりたいことなら、それをやると自分は満たせるけれど、「親だから」とか、「母親だから料理作らねば」みたいなのであれば、やっても自分は満たせません。
 
 つまり、義務感でやっていることは、どれだけがんばってやっても、子どもの教育プロセスは進まない、っていうことです。
 
 自分が疲れていくだけ。
 
 
 
 もしも、義務感でがちがちな場合、すぐにやめることも難しいかもしれないから、まずは、
 
 「これはやりたくない」
 
 って言うことから始めてみるのはいいかもしれません。
 
 
 
 参考までに。

佐伯コメント

「子育ての主役は誰か?」って考えると、それは育てられる方じゃなくて、育てる方です。

つまり、親。

子どもは、自分の人生の主役です。

 

だとすれば、親が心の状態や、身体の状態が万全じゃないと、いい感じの子育てなんてできないよね!